はじめに
公共施設において転倒事故が発生した場合、その転倒の原因に施設の不備が関係する場合、施設側の責任が問題となることがあります。特に、温泉施設、スーパー銭湯等の温浴施設では、床面が温泉成分等を含んだぬめりのある水で濡れていることが珍しくなく、そのために床面がその他の施設に比べて滑りやすいという性質があり、転倒事故が後を絶えません。このような場所において、施設側がどのような対策をすれば責任を免れることができるのかについて、いくつかの裁判例をもとに考察してみようと思います。
第1 裁判例の紹介
1 施設側の責任を肯定した裁判例
⑴ 盛岡地判平成23年3月4日判タ1353号158頁
ア 事案の概要
当時48歳の男性が、ホテルの大浴場を日帰り入浴のために利用していたところ、内風呂の中央部分に設置されていた2段の階段で転倒したというものです。階段部分には御影石が使用され、ジェットバーナー仕上げ等がされていました。
この訴訟は、ホテル側が、自らには責任がない(損害賠償債務が存在しない)ことの確認を求めて提訴され、男性側がホテルの責任を争ったものです。
イ 判旨(抜粋)
(ア)土地工作物責任について
「本件階段部分に用いられている御影石は、十和田石よりも濡れたときに滑りやすいものであることは否定し難いが、ジェットバーナー仕上げ等がされており、一般的に浴場の床材に使用されているものである。しかも、当該ホテルの浴場は源泉かけ流しとはいえ、平成21年7月当時も毎日床の清掃がされていたことがうかがわれる。そして、当該ホテルは開業から20年以上経っているとはいえ、その程度の期間経過により、直ちに温泉施設の床として通常備えているべき安全性を欠くに至ったとまでいえるかは疑問もあり、証拠上、本件階段部分の床がそのような安全性を欠いていたとまで認めることもできない。」
「内風呂の中央部分に階段があることについては、確かに、階段がないのがベストであるとはいえるものの、構造上や設計上その他の必要から階段を設置した場合に、そのことが直ちに「瑕疵」とまでいえるかは疑問がある。現に、温泉施設に階段を含めた段差が設けられている例もあるところ、そのような段差があれば、相当の確率で転倒事故が発生するとまで認めることはできず、これまで他に本件階段部分での転倒による重大事故は発生していないことをも考慮すれば、階段が設置されていることが直ちに「瑕疵」であるということはできない。」
「以上より、工作物責任に関する被告の主張は理由がない。」
(イ)安全配慮義務について
a 規範部分
「浴場の利用者は通常、床を素足で歩く」うえ、「本件階段部分は浴場の中央部分であり、近くに浴槽や洗い場があることからすると・・・濡れていることが多いと考えられる。・・・御影石はジェットバーナー仕上げ等をしたとしても十和田石よりも滑りやすいことは否定し難い。」「本件転倒事故の現場は階段になっており、階段を上り下りしようとするときは片足を上げた状態になり、しかも体の重心が前後に移動することもあって、瞬間的に、体の中心よりも後ろ側に重心が傾き、結果として背部から転倒しやすくなる・・・。・・・本件階段部分の横の長さは約3メートルであり、相当広いといえる。」「そうすると、本件階段部分の床が水分で濡れている状態で、素足で歩くと、滑り抵抗値が少なくなる結果、滑ってしまう可能性があり、いったん滑ってしまうと転倒は避けられないと認められる。なお、本件階段部分の御影石にはグラインダーで溝がつけられているというものの、その溝は大した深さではなく、溝と溝との間隔も広いから、滑った際にそれを食い止める程の力はないことが明らかである。」
「本件階段部分に至る通路の床材は原告も最も滑りにくいという十和田石であるのに対し、本件階段部分はジェットバーナー仕上げ等がされているとはいえ、濡れると滑りやすい御影石であり、通路を通って本件階段部分に至ると滑りやすさが変わるという事情も認められる。・・・滑りにくい場所から滑りやすい場所に来たときには、滑る可能性を意識しづらい結果、予期せずして滑ってしまうことも想定される。」「温泉にはリラックスをしに行く場合も多く、注意が散漫になりがちであり、しかも、本件の階段は横に広く、段差がわずか2段であるがゆえに、利用者が滑らないように注意をしなければという気持ちを抱きにくいという特殊性も認められる。」
「そして、当該ホテルは客室だけで750名の収容が可能な岩手県でも有数のホテルであり、浴場の利用者も多く、その年齢等もまちまちであることがうかがわれる。」「当該ホテルの大浴場には、内風呂の奥に檜風呂があったり、外に露天風呂があったりし、大浴場内で度々移動することが予定されており、この移動に伴う滑りの危険性への対策の必要性がより認められるところである。」
「以上のことを踏まえると、原告には、浴場の利用者に対する信義則に基づく安全管理上の義務として、利用者が本件階段部分において滑って転倒しないように配慮すべき義務があったというべきである。ただし、温泉施設の床が滑りやすいことは一般的に認識されていることであり、施設の設置者だけに一方的な義務があると考えることは相当ではなく、上記義務は利用者が一定の注意を払うことを前提としたものと理解すべきと考えられる。」「具体的には、利用者に分かりやすく転倒への注意喚起の表示をしたり、床についてさらなる滑りへの対策をしないのであれば、利用者の動線上に手すりを設置したりするなど、利用者が注意を払うことと相まって、トータルとして転倒を防止することができる程度の対策を講じたりすべき義務があると考えられる(床材を十和田石のような滑らないものにしたり、本件階段部分にマットを敷いたりすることによって滑り自体を生じなくすることも一つの対策の講じ方と考えられる。)。」
b あてはめ
「確かに、内風呂の入り口付近に転倒への注意喚起の立看板や表示がされていたが、・・・本件階段部分には他の部分よりも滑りやすいという特性があるのであり、温泉施設全般に関する注意喚起とは別に、分かりやすく本件階段部分に対する注意喚起の表示をすべきであったと考えられる。しかし、本件階段部分には注意喚起の表示はされていなかったというのである。」「また、本件階段部分の床について、ジェットバーナー仕上げにして溝をつけただけで、それ以上の滑りへの対策は特にされていなかったし、本件階段部分付近に手すりも設置されていなかったというのである。」「なお、原告は本件階段部分の浴槽とは反対側に袖壁があると指摘しているが、・・・階段の横の長さは約3メートルであり、浴槽側を通る場合には、袖壁を手すりとして用いることはできないことになり、袖壁があるから滑りへの対策が十分であるということにはならない。」
「そうすると、原告は、私法上、利用者に対して果たすべき上記義務を十分に履行していなかったといわれても仕方ないと考えられる。」
2 施設側の責任を否定した裁判例
⑵ 東京地判平成26年1月16日判例集未搭載
ア 事案の概要
当時50歳代の女性が、浴場施設を利用していたところ(なおこの女性は月1回程度のペースで通い、10回以上利用していたようです。)、外湯の源泉岩風呂から出ようとして階段に足をかけた際に滑って転倒したというものです。
女性側は、転倒事故の発生について、施設側に土地工作物責任及び安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求をしました。
イ 判旨(抜粋)
(ア)土地工作物責任について
「たしかに、本件浴場の泉質はややph値が高いが、本件階段部分の床は、表面が凸凹した美濃石を乱貼りにしてあり、温泉場の防滑対策としては一般的な仕様であるものと認められ、転倒防止のための手すりが片側に付いていた。」「本件階段部分は、手すりの根本が、源泉岩風呂の腰をかける円状の座面部分から設置されているために、入浴客が手すり根本の周囲に腰をかけ、通行が妨げられることもあると思われ、また本件階段の幅からして、入る客と出る客が同時に階段を通行することも想定され、本件階段部分には、両側に手すりを設置することが望ましいと考えるが、源泉岩風呂の大きさから、同時に入浴できる客の数はそう多くはないと思われることも踏まえると、本件階段の片側のみに手すりを設置したことが、設置の瑕疵にあたるとまではいい難い。」「そして、本件階段床部分の石が、開業からの期間経過により、温泉施設の床として通常備えているべき安全性を欠くに至ったと認めるに足る証拠はなく、本件浴場は、毎日清掃が実施されていて、本件階段部分に保存の瑕疵があったということもできない。」
「以上により、土地工作物責任に関する原告の主張には理由がない。」
(イ)安全配慮義務について
「浴場の利用者は床を素足で歩くのであり、本件浴場は、内湯、外湯に他種類の風呂が設置され、浴場内の客の移動が予定されているから、移動に伴う客の転倒防止等への配慮が求められるところであり、被告には、浴場の利用者に対する信義則上の義務として、利用者が本件階段部分において滑って転倒しないように配慮すべき義務があったというべきである。ただし、温泉施設の床が滑りやすいことは一般的に認識されていることであるから、上記義務は利用者が一定の注意を払うことを前提としたものと理解すべきと考えられる。」「これを本件についてみるに、本件浴場における転倒防止への注意喚起は、入浴する客が必ず通る動線上の脱衣場入り口の暖簾をくぐった正面ロッカー壁面及び多数の者が目にすると思われる浴場内のかけ湯の壁面に掲示され、本件階段床の防滑状況は前記のとおりであり、源泉岩風呂からかけ流された湯は、本件階段部分ではなく、隣接する岩風呂に流されていたので、本件階段部分は、入浴客の出入り等で濡れることはあっても、常時水が溜まる状況だったとまでは認められず、また、原告は浴槽から上がるところであったので、体全体及び足の裏が濡れていたものと推認され、足元が滑りやすくなっていたから、原告において、手すりのある側を通るように一定の注意を払うことも期待されるところ、これが困難であった事情はうかがえず、原告の供述からすると、本件事故発生時に原告が本件階段の手すり自体にあまり注意を向けていなかったことは否定しがたい。」
「原告の転倒自体については、被告がした上記の安全対策をして、安全配慮義務違反があるとは認められない。」
⑶ 旭川地判平成30年11月29日判時2418号108頁
ア 事案の概要
当時85歳の女性が、温泉施設を利用していたところ、脱衣場から通路を通って浴場に足を踏み入れた際に、足を滑らせて転倒したというものです。浴場の入口付近には、約8cmの段差があり、段差の浴場側部分には滑り止めのゴムマットが敷かれていませんでした。
女性側は、転倒事故が発生したのは、施設側に安全配慮義務違反があったためであるとして、施設に対して、不法行為に基づく損害賠償請求をしました。
イ 判旨(抜粋)
「浴場は、人が体を洗ったり、お風呂に入ったりする場所であるので、その入口付近では、体を洗った際の石鹸水等が流れ込んでくることもあれば、浴場と脱衣所の間の通路のバスマットは、浴場から出て来た人の体に付着した水分を吸い込むことで濡れていることがあると思われるが、浴場施設の利用者としてはそういったことがあることを想定し、転倒しないように注意して行動すべきであって」「被告に、本件浴場入口部分にある段差の浴場側にゴムマットを敷いたりする義務があったとはいえない。」
「被告は、本件転倒事故以前から、本件浴場入口側のスライドドアの右側ガラス戸に「浴場内は、スベリますので、ご注意願います。」という横書きの掲示板を、掲示していたことが認められる。そうすると、被告は浴場が滑りやすいことを注意しており、その点に関して、被告には注意義務違反はない。」
「以上によれば,本件転倒事故につき,被告に安全配慮義務違反があったとは認められない。」
第2 若干の考察
1 土地工作物責任について
土地工作物責任における、設置又は保存に瑕疵があったとみられるかどうかは、当該工作物の構造、用法、場所的環境及び利用状況等諸般の事情を総合考慮して具体的個別的に判断すべきものとされています(最判昭和53年7月4日民集32巻5号809頁(国賠法上の営造物責任についての判示))。
上記3つの裁判例のうち、土地工作物責任の主張が出されていたのは⑴盛岡地判と⑵東京地判ですが、いずれも施設側の土地工作物責任を否定しています。その際に考慮していたポイントを抽出するとすれば、①床の材質・状態が滑りやすいか、②防滑対策として何が行われていたか(床の加工や手すりの設置など)、③掃除がどのくらいの頻度で行われていたか、④過去に転倒事故が起きているか、という点が挙げられます。この中でも、やはり工作物そのものの危険性に関わる①、②の事情を重要視することになろうと思われます。いずれの裁判例も、階段での転倒事故が問題とされていますが、いずれも床面の材質や防滑対策が温浴施設では一般的なものであることに言及しています。
一方で、床面がかなり特殊な素材を使用していて、一般的な素材よりもはるかに滑りやすいというような事情があれば、当然土地工作物責任を肯定する方向に傾きます。土地工作物責任が問題となった場合には、まず転倒場所の床面が、一般的な温浴施設と比較してどれほど滑りやすいのかという点を検討する必要があろうと思われます。
2 安全配慮義務について
不法行為と構成するか債務不履行と構成するかはここでは触れませんが、いずれの裁判例においても安全配慮義務違反の主張が出されています。ここでも、裁判例で考慮されているポイントを挙げるとすれば、①床の材質・状態が滑りやすいか、⑤階段など転倒場所が転倒を誘発しやすいか、⑥床が滑りやすいことの注意喚起の有無、⑦水が濡れやすい場所・溜まりやすい場所だったか、⑧構造上客が度々移動することが予定されていたか、⑨被害者の直前の行動、という点が挙げられます。
温浴施設によっては、湯船近くには防滑対策をしているが、その他の場所にはしていないなど、全面的に防滑対策をしていないところがあります。そうすると、利用客にとっては、滑りにくい床だと信じて油断していると急に滑りやすい場所が現れて転倒してしまうという危険が生じることもあります。この場合、全面的に滑りにくい材質の床に張り替える対策をとるのが無難ですが、コストの問題から現実的でないことが多いです。そのため、このような施設においては、特に滑りやすい箇所に注意喚起の掲示をする、多くの来場客の動線となる場所については水濡れ対策として掃除を頻繁にする、階段付近には上り下りをする人の手の届く範囲に手すりを設置しておくなど、可能な限りの対応をとっておくことが、のちの紛争に備えた対策となると思われます。
3 まとめ
いずれにしても、諸般の事情を考慮して決することになりますので、一概にこれをやっていれば責任を免れられるというものではないですが、責任を肯定した盛岡地判の判示内容を参考にして、可能な限りの転倒防止対策を講じておくことが肝心です。